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光太郎
ITエンジニア
国立工科大学卒業後、30年以上、一貫してITエンジニアの道を歩む。キャッシュレス決済を活用を推進し、オトクな情報に目が無い。3人の子供に囲まれ、常に妻の顔色を伺っているため、危険察知能力が高い。

井端弘和、嫁(河野明子)の愛と献身で克服した壮絶な困難

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2023年10月4日、野球日本代表「侍ジャパン」の新監督となった井端弘和氏の就任が決定し、就任会見が開かれました。

2023年3月の第5回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では日本が優勝し、公認監督選びのハードルが上がりました。

著名な野球経験者の名前が上がる中で、「意外」と言われた井端弘和氏ですが、実はお嫁さんの明子(旧姓、河野)さんの支えがとても大きかった事がわかりました。

この記事では2人のプロフィールを振り返り、井端氏を支えた奥(河野明子)さんがわかります。

スポニチより
目次
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プロフィール

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井端弘和(いばた・ひろかず)さんのプロフィール

  • 1975年5月12日生まれ、神奈川県川崎市川崎区出身
  • 堀越高等学校時代に、全国高等学校野球選手権大会に出場
  • 亜細亜大学に進学、野球部に所属
  • 1997年のドラフト会議で中日ドラゴンズから5位指名を受け入団
  • 2014年に読売ジャイアンツ移籍
  • 2015年シーズン後に引退
  • 2023年10月3日、日本代表監督に就任

河野明子(かわの・あきこ:旧姓)さんのプロフィール

  • 1978年12月19日生まれ、東京都杉並区出身
  • 慶應義塾幼稚舎、慶應義塾中等部、慶應義塾女子高等学校、慶應義塾大学法学部法律学科卒業
  • 2001年4月テレビ朝日に入社
  • 高校ではバスケットボール部
  • 大学で始めたラクロスは入社後も続け、日本代表の経験もある
  • ニュースステーション(Nステ)、スポーツコーナー担当(2002年7月4日-2004年3月26日)
  • 報道ステーション、サブキャスター(2004年4月5日-2009年3月31日
  • 2008年12月22日、井端弘和と結婚、2009年3月31日に退社

キャスター時代の河野明子さん

時事ドットコムより

夜の人気報道番組「Nステ」の後を受けた「報道ステーション」でサブキャスターを務めました。

メインキャスター古舘伊知郎さんと共に、番組の顔であり華でした。

思い出すだけでもキュン!としますね。

家族構成

夫婦以外の家族構成は以下です。

  • 長男、2011年7月26日生まれ
  • 長女、2013年生まれ
  • 次女、2015年生まれ

恋愛遍歴となれそめ~実は恋多き女

河野明子さん(旧姓)の恋愛遍歴、そして井端弘和さんと結婚に至るまでを振り返ってみましょう。

恋愛遍歴~実は、年上好き?

2004年、師弟愛(11歳年上)

2004年、報道ステーションのサブキャスターに抜擢された頃、ラクロスの元日本代表ヘッドコーチとの熱愛が写真週刊誌「フライデー」の2004年5月28日号に報じられました。

ラクロス日本代表時代

テレビ朝日HPより

休日のお泊り愛が、写真つきで報じられてしまいました。

フライデーHPより

2005年、22歳年上、上司

その翌年(2005年)、週刊ポストに22歳年上の番組プロデューサーと、東京都内の高級マンションで一緒に住み、仕事にも同伴出勤していることが報じられました。

これには、テレビ朝日局内も驚きました。

上司は同じ慶応大学を卒業しており、報道ステーションを担当していたことから、急速に親しくなったようです。

週刊誌に報道された時点で、男性はすでに離婚の協議に入っており、テレビ朝日広報部は、交際の事実を認めていました。

しかし、22歳という年の差もあり、親御さんの反対もあったのでしょう。

結婚に至ることはありませんでした。

河野明子さんに「婚約破棄」というウワサがあるのは、そのせいでしょう。

なれそめ

中日の”堅実に守り勝つ野球”が好き」と語るほどのドラゴンズファンでした。

そんな中日の守りの要が、井端弘和さんでした。

2人の出会いは明子さんが取材で訪れた2004年の沖縄キャンプ。

明子さんは、井端弘和さんに一目ぼれしたそうです。

その後、意気投合、2008年頃から交際が始まり、その年の12月に井端さんがプロポーズされ、結婚しました。

スポニチより

実は、明子さんが中日ファンなのは、お父さんが熱心な中日ファンであったことが元にあるようです。

結婚には、親御さんの強い後押しもあったようです。

妻、河野明子の献身的サポート

河野明子さんといえば、井端弘和さんを献身的にサポートし、その存在を輝かせていました。

多くのファンや関係者から「貢献度がすごい」と評されています。

中日ドラゴンズ時代

河野明子さんの卓越したサポート力は、結婚直後から発揮されました。

明子さんは、井端さんが活躍していた中日ドラゴンズのホーム、名古屋に結婚後移住。(2009年3月頃)

その時、華やかな花形アナウンサーの仕事をスッパリ辞め、ご主人のサポートに全力を尽くし始めます。

テレビ朝日、送別会でのヒトコマ

テレビ朝日HPより

2009年シーズンを例に挙げると、試合には遠征にも必ず同行し、なんと130以上もの公式戦を現地で観戦しました。

試合での様子を見て、食事や体調、そしてメンタル面でのサポートをしていたようです。

こんなキレイな人に、ずっと応援されたら、当然、張り切ってしまいますね。

結婚直後の危機と妻の献身

張り切りすぎたのでしょうか?

結婚した翌年の2009年、井端弘和さんは目にウィルス性の炎症ヘルペスを発症してしまいました。

2009年こそ144試合フル出場を果たしたものの、2010年にはキャンプ中に再発してしまいました。

その結果、2010年には、わずか53試合にしか出られない不調に。

なんと、2011年には目の薬の申請を、球団が怠ったためですが、ドーピング規則違反を犯すことになってしまったのです。

「結婚した途端に打てなくなった。嫁がダメにしたんだ」

と、詳しく事情を知らない人の中には、陰口をたたく人もあったようです。

不調の真の原因~炎症ヘルペス

不調の原因は、目の角膜ヘルペスで、その発症原因は明らかになっていません。

「レーシック手術の失敗が原因」とする情報がネット内にたくさんありますが、それはある雑誌記者が憶測で書いた記事がひろまったもののようです。

2009年シーズン前のグアム自主トレで目に痛みをおぼえ、日本に帰り受診した結果が『上皮角膜ヘルペス』でした。

ボールがぼやけて見えるため、打撃の成績も振るわず、守備も感覚で捕球する状態だったのです。

引退の危機

やがて、右目がほぼ見えない状態に悪化してしまい、ボールの遠近感が無く、成績が振るわなくなりました。

出場試合数が激減した2010年、2011年には過去最低の打撃成績となり、このころが一番つらい時期だった、と妻、明子さんは、語っています。

家にいても、痛みをこらえているだけで、テレビも見れず、『これ以上、球団に迷惑はかけられない』と主人は引退を切り出しました。

直そうと医者にかかっていましたが、治る兆候もありません。

『すぐにでもやめることを、監督に話す』と言う弘和さんと、朝4時まで話し合いました。

『どこかに治せる方法があるはず。私が調べ尽くして、それでも回復しないならアキラメましょう』という結論で落ち着いたのだそうです。

妻の献身的サポート

それから明子さんは、ネットやアナウンサー時代の人脈も活用し、全国の眼科医師を徹底的に調べました。

100以上の病院を調べ、評価の高い医師には対面で、自ら話を聞きに足を運びました。

医師だけでなく、特別なコンタクトレンズの可能性も探り、およそ目に関することは次々調べました。

相談もした。さらに彼女は、夫を救うためなら、我が身を差し出しても……、という覚悟も持っていました。

まさに、身を挺する思い

スポーツ選手、特にプロ野球の打者は、高速な投球に反応するために視力は非常に大切です。

実際に、2000年にレーシック手術を行い、2001年にはレギュラー定着、2002年にはベストナインに選ばれるなど、生成は上がっています。

目の不調さえ解消できれば、優れた身体能力を活かすことができると、一途に考えたのでしょう。

私の目、網膜や角膜を移植して、主人の視力を戻すことはできないのでしょうか?」

そんな言葉が、明子さんの口から出たほどです。

「移植する」ということは、自分の体にもメスを入れ、さまざまなリスクがあることは承知の上でしょう。

思いが届き、復活へ

結局『移植はできない』と先生に言われてしまいましたが、いくつもの病院を真剣に探し、根気よく回りました。

そして、効果のある治療法を試しては見つけ、地道に続けることで、徐々に回復してゆきました。

右目の視力は完全は戻らないながらも、身体感覚で補うことができるようになり、守備・打撃の成績が上がるようになってゆきました。

そして、2012年には、3年ぶりのゴールデングラブ賞を受賞して、復活。

2013年3月からの、第3回WBC(World Baseball Classic)のメンバーとして選出されたのです。

第3回WBCで大活躍

第3回WBC。

この国際舞台でも、井端弘和さんと河野明子さんのパートナーシップが活かされました。

名プレイヤー井端弘和さんを、元ラクロス日本代表だった河野明子さんが支えました。

明子さん自身も国際大会(2001年「女子ラクロスワールドカップ」など)でプレーした経験があるため、国を背負ってプレイする重圧やその喜びを深く理解しています。

そんな彼女が井端さんに注いだ、計り知れないサポートが、第3回WBCで彼を輝かせました。

東京ラウンドのブラジル戦・台湾戦、続けて同点打を放ち、チームの危機を救いました。

脅威の打率.556、大会ベストナインにも選ばれる大活躍でした。

家族への感謝

WBCの際のインタビューでは、

「家族の支えがあったからこそ、この結果が出せました」

と語りましたが、家族の中でも明子さんの存在が一番大きかったことは、いうまでもないでしょう。

スポニチより

そんな様子を見た里田まいさん(プロ野球選手・田中将大の妻)は、こう言っています。

河野明子さんはプロ野球選手の奥さんの鑑です。

まとめ

とあるインタビューでは、

「もっと早く結婚していれば、もっと良い選手になれたのに」

と照れながら語りました。

おそらく、彼女のサポートがあったからこそ、井端さんはフィールドで最高のパフォーマンスを発揮できたと言って間違いないでしょう!

スポニチより

大きな困難もありながら、人の支えて乗り越えてきた経験は、日本代表チームを率いるのにも存分に生かされるでしょう。

井端弘和監督の活躍、それを支える、妻明子さんに、今後も注目していきたいと思います。

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